朝の空気というのは、どうしてあんなに静かに胸へしみ込んでくるのでしょうね。まだ世界が完全に目を覚ましていない時間、私はゆっくりと歩きながら、ふと足を止めることがあります。あなたも、そんな瞬間を思い出せるでしょうか。ほんの少しだけ心が重たい日。理由ははっきりしないのに、なんとなく息が浅くなる朝。小さな悩みの芽が、胸のどこかでひとつだけ膨らんでいるような、そんな気配です。
葉の裏側に残る夜露が、朝日を受けてきらりと光るのを眺めていると、その悩みの芽がすこしだけ輪郭をゆるめていくのを感じます。冷たい空気が指先に触れ、肌を撫で、胸の奥へゆっくり入ってくる。そうすると、心の中のざわめきも、少し整っていくように思えるのです。呼吸をひとつ深くしてみてください。吸って、吐いて。それだけで、世界はすこし違う顔をしてくれます。
昔、弟子の一人が私にこう尋ねました。「師よ、私はいつも小さな悩みに心を奪われてしまいます。周りは気にしていないのに、私だけが苦しいのです」。私は微笑んで、足元に落ちていた小石をひとつ拾い上げました。手のひらにのせると、朝露の冷たさがじんと伝わってきました。「この小石ほどの悩みでも、握りしめれば重くなる。けれど、ただ見つめれば、風がそれをどこかへ運んでいくこともあるのだよ」と伝えました。
小さな悩みというのは、まるで影のようです。光があれば影は生まれるし、心に希望があっても、その裏側にほんの小さな陰りがつきまといます。仏教では心の働きを“心所”と呼び、その中には迷いを生むものもあれば、安らぎを育てるものもあると説かれています。人の心は、晴れの日も雨の日もある空と同じですね。変わることが自然で、変わらないほうがむしろ不自然なのです。
そういえば、ひとつ面白い話があります。チベットの高地では、人々は石を積んで祈りを捧げますが、その石ひとつひとつに小さな願いごとを込めるのだそうです。重たい願いだけを祈るのではありません。「今日も風が優しいように」「家族がよく眠れますように」。そんなささやかな願いで石を積むと、悩みよりも“願いの数”が心を支えてくれるのです。小さいものにこそ力が宿るという、そんな tidbit を思い出すたびに、私は心がほぐれていきます。
あなたの悩みは、いまどれくらいの大きさでしょう。手のひらにのるほどか、胸いっぱいに感じるほどか。それを否定する必要はありません。ただ「ある」と認めて、そっと隣に座らせてあげればいいのです。追い払おうとすると、悩みはかえって強くなりますからね。静かにしていると、悩みはまるで子どものように、気づけば眠ってしまうこともあります。
呼吸を感じてください。いま、この瞬間の空気だけがあなたと共にあります。過去でも未来でもありません。あなただけの小さな部屋に、朝の光が静かに差し込み、心の中にできた影も、少しずつほどけていきます。こうして小さな悩みの芽は、急いで摘む必要はありません。ときが来れば、自然に葉を落とし、風に乗ってどこかへ消えていきます。
だから、焦らなくていいのです。
すべては、やがて軽くなる。
まじめに生きることは、美しいことです。
けれど、ときにその美しさは、あなたの肩をそっと押しつけ、知らないうちに重荷へと変わっていくものですね。朝、鏡を見ると、少しだけ眉がきゅっと寄っている。歩くときの足音が、以前よりも硬くなっている。そんな変化に気づいたら、心のどこかで「がんばりすぎているよ」と小さな声がしているのかもしれません。
私はかつて、ある村の青年に出会いました。彼は仕事熱心で、誰よりも早く畑に出て、誰よりも遅く家に戻る人でした。ある日、彼は私にこう言いました。「師よ、私は怠けることが怖いのです。真面目でいなければ、人に見放されてしまう気がします」。彼の声は、冷えた風に触れた葉のように震えていました。
私はそっと彼の背に手を添え、夕暮れの橙色に染まる田畑を一緒に眺めました。遠くで鳥が帰る羽音がして、それが静かな合図のように心を柔らかくします。
「真面目であることは悪くない。しかし、真面目“すぎる”とき、人は自分の心から離れてしまうのだよ」と私は伝えました。青年はうつむいたまま、小さく息をつきました。その息が、土の匂いと混じり合って夕風に溶けていくのが見えました。あなたにもそんな息がありますね。気づかれずに消えていくため息。自分にさえ届けられない声。
仏教には“中道”という教えがあります。過度な努力にも、無為にも偏らない、ほどよい真ん中の道です。釈迦が悟りへ至る前、苦行を極めても智慧が開けなかったことから、「張りすぎた弦は切れる」という真理に気づいたという話が残っています。まじめに張りつめた心は、ある日ぷつりと音を立ててしまう。そんな危うさを、昔の人も知っていたのです。
ところで、ひとつ興味深い豆知識があります。
日本の古い商家では、帳簿に“適当に”という言葉がよく残されているのだそうです。数量を曖昧にする意味ではなく、「やりすぎず、足りなさすぎず、ちょうどいい塩梅で」という智慧でした。真面目さを美徳とする文化の中でも、「適当」は実はとても深い言葉だったのですね。
あなたの心の中にも、“適当”という余白が必要です。
真面目でいるあなたはすばらしい。けれど、そこに少しだけ風を通してあげましょう。今日一日の中で、どこか一か所でよいのです。「まあ、これでいいか」と軽く肩をゆるめられる瞬間を作ってみてください。たとえば、部屋に差し込む午後の光を少し眺める。温かいお茶をゆっくり飲む。窓を開けて外の匂いに触れる。そんな小さなゆるみが、心の弦をそっと張り直してくれます。
かつての青年は、私のもとを訪れるたびに少しだけ表情が変わりました。初めて会ったときは固い石のようでしたが、月日が流れるうちに、湧き水に濡れた丸い小石のように柔らかさを宿していきました。ある日、彼は照れくさそうに笑って言いました。「師よ、私は最近、昼寝を覚えました」。その瞬間、私は心の奥で静かに微笑みました。真面目な人ほど、“休む勇気”を手に入れたとき、世界がふっと軽くなるのです。
あなたも深呼吸をしてみましょう。
吸うとき、肩を上げないように。
吐くとき、すこし長めに。
ゆっくり呼吸をするだけで、胸の奥で張りつめていた糸がほどけていきます。呼吸は、いつでもあなたを守る友のような存在です。気づいたときに戻ってくる場所があるというのは、どれほど心強いことか。
まじめすぎるあなたへ。
その真面目さを否定する必要はありません。
ただ、その上に薄い羽衣のような「のんきさ」を一枚まとってみるのです。すると、歩く道の色が少し変わり、空の広さが前よりも大きく見えてきます。
どうか覚えていてください。
あなたの心は、硬くある必要はないのです。
柔らかさこそ、強さになる。
のんきという言葉を聞くと、どんな景色が浮かびますか。
だらしなさや怠けを想像してしまう人もいるでしょう。けれど、私が語りたい“のんき”は、そんな薄っぺらなものではありません。もっと深くて、しぐさのように静かで、心の芯にそっと座るような、生きる姿勢そのものです。
私はある日、山を歩いていました。朝霧がまだ谷の底に残っていて、松の香りが湿り気を含んで漂っていました。足元の土がやわらかく沈み、鳥の声がどこか遠くで丸く響いていました。そのとき、いつも忙しなく働いてばかりいる弟子のチャンナが、息を切らせて追いかけてきました。
「師よ、私はどうしても力を抜くことができません。気を休めようとすると、不安が襲ってくるのです。怠けているような気がして、心が落ち着かないのです。」
私は立ち止まり、霧に包まれた山肌を指さしました。
「チャンナよ、あの霧を見なさい。霧は、急いで晴れようとはしない。ただそこに漂い、陽が昇れば消えていく。それなのに、誰も霧を怠け者とは言わぬのだよ。」
彼はぽかんと口を開け、しばらく霧を見つめていました。
あなたも、心のどこかで同じ問いを抱くことがあるでしょう。
“力を抜くのは悪いことだ”
“のんきにすると人生が崩れてしまう”
そう思ってしまうのは、人が本能的に「制御しよう」とする生き物だからです。すべてを手で掴もうとしてしまう習慣が、のんきさを遠ざけてしまうのです。
仏教には、**「諸法無我」**という教えがあります。
すべてのものは固定した“私”には属しておらず、移り変わりの中で成り立っている、という真理です。
この教えを深く味わうと、力を入れて握りしめなくても、世界は自然に回っていくことがわかります。
ときどき、私はこんな豆知識を思い出します。
古代インドでは、賢者たちが昼間に“意味のない散歩”をよくしていたという記録が残っています。目的地を決めず、ただ足の向くままに歩く。それは怠惰ではなく、“欲望の流れを鈍らせ、心を整える方法”として尊ばれていたのです。人は、意味のない時間をもつと、むしろ智慧が冴えてくる。なんとも面白い話でしょう。
あなたがもし、のんきになることに罪悪感を覚えているのなら、胸に手を当ててみてください。
その鼓動は、あなたが休んでも止まりません。
空の雲は、あなたが力を抜いても流れ続けます。
世界は、あなたがのんきであっても、ちゃんと動いてくれるのです。
私はチャンナにこう言いました。
「のんきとは、気を抜くことではない。心を縛らないことだよ。」
すると彼は、おそるおそる尋ねました。
「では師よ、私はどうすればのんきになれるのでしょう。」
私はポケットから小さな木の実を取り出し、彼に渡しました。
「まずはこの木の実を、急がずに味わいなさい。噛む必要もない。ただ口に含み、香りと重さを感じるだけでよい。」
チャンナは戸惑いながらも木の実を舌に乗せ、目を閉じました。
しばらくして彼は、ふ、と肩を落としました。
「師よ……味がします。こんなに小さな実に、香りと柔らかさがあったことに驚きました。」
私は微笑みました。
「それが“のんき”の扉を叩いた音だ。」
あなたにも、そんな扉があります。
今日、ほんの数秒でいいのです。
ひとつの物事だけに心を向けてみてください。
それは手に触れた湯気の温度でも、風に揺れる木の影でも、夕方のスープのにおいでもいい。
いま、この瞬間だけに意識を置く。
それがのんきの第一歩です。
呼吸してみましょう。
吸うと胸の奥がゆるみ、
吐くと背中に暖かい空気が落ちていきます。
“のんき”とは、この呼吸のようなものです。
雑念があっても構わない。
焦っても構わない。
ただ、ふわりと戻ってくる場所を知っていること。
あなたはまだ、のんきさを失ってはいません。
むしろ、ずっと前から心の奥で眠らせていただけなのです。
どうか思い出してください。
人生には、急ぐべき瞬間より、
立ち止まって味わうべき瞬間のほうが、
ほんとうは多いのです。
のんきへ向かう扉は、
いつも、あなたの胸のすぐそばにある。
不安というものは、音もなく寄ってきますね。
夜の静けさのように、影のように、気づいたときにはもう心の片隅に座り込んでいる。あなたもきっと、その存在にそっと触れたことがあるでしょう。胸の奥がかすかにざわつき、落ち着かない風が身体の中を通り抜けていくような、あの感覚です。
私はかつて、夕暮れの道を歩きながら、弟子のアーナンダの声を聞きました。
「師よ、私は最近、理由のわからない不安に包まれるのです。未来のことを考えると、心が細く震えます。」
彼の声は、薄闇に溶けていく風鈴の音のようにかすかで、儚く、握ろうとすると消えてしまうようでした。
私はそっと立ち止まりました。
その場には、ほんのりと湿った土の匂いがありました。
夕日の最後の光が、地面に長い影を描いていました。
「アーナンダよ、不安は悪ではない。それは心が未来を想像する力を持っている証なのだよ。」
あなたも、きっと同じです。未来を感じ取れるから、不安は生まれる。
けれど、その未来というのは、まだ形のない煙のようなものです。
風が吹けば変わり、陽が昇れば薄れ、手で掴もうとすると指の間をすり抜けていく。
仏教の教えでは、**「想(そう)」**という心の働きに触れます。
これは、現実ではないものを思い描く力です。
人は実際には起きていない不幸を、まるで現実のように見てしまう。
その力が、あなたの胸に不安をもたらします。
ですが、ここでひとつ面白い豆知識があります。
古代の僧たちは、不安が生まれたとき、わざとゆっくり歩く「経行(きんひん)」という修行をしました。早く歩けば不安も速く回る。遅く歩けば、不安の回転は自然と弱まる。リズムを変えるだけで、心の速度が変わるという智慧です。とても人間らしい工夫ですよね。
私はアーナンダに言いました。
「不安は追い払うものではない。影と同じで、光が当たれば形を変え、あなたの後ろに寄り添う。ただ、あなたが歩く方向を選べば、不安はあなたの背中をついてくるだけなのだ。」
彼はその言葉を聞きながら、夕暮れの空を見上げました。
薄紫色に溶けていく雲が、静かに広がっていました。
「師よ、では私は不安とどう向き合えばよいのでしょうか。」
私は笑って答えました。
「まずは、不安を“敵”と思わぬことだ。
次に、不安に名前をつけてみる。
『ああ、これは焦りだな』『これは寂しさだな』と。」
不安に名前をつけると、それは少しだけ小さくなります。
形のない影に輪郭が生まれ、心に押し寄せる力が弱まるのです。
あなたも、もし今日、不安が胸にあるなら、そっと名前を呼んでみてください。
「小さな影さん、いるんだね」と。
たったそれだけで、心の緊張がふっとゆるむことがあります。
私はアーナンダとともにしばらく歩きました。
その足音が砂を踏むたび、さく、さく、と乾いた音が響き、胸のざわめきが少しずつ整っていくのがわかるようでした。
やがて彼は言いました。
「師よ、不安があるのに、歩いているうちに心が静かになっていきます。」
私は頷きました。
「不安は止まった心にはまとわりつくが、動き続ける心には深く入り込めない。
だからこそ、歩くのだ。
急がず、止まらず、生きる速さからひとつ呼吸を抜いた速度で。」
あなたも今、ゆっくり呼吸してみてください。
吸って、吐いて。
呼吸というのは、不安が入り込む隙間を塞ぐためではなく、不安とともに在るための、柔らかな布のようなものです。
この世界には、不安がない人などいません。
大切なのは、
不安に飲まれないことではなく、
不安を抱えながらも歩ける自分を知ることです。
夕暮れはやがて夜へと移り、夜はまた朝へと戻ります。
不安もまた、同じように巡るのです。
永遠にとどまる不安などありません。
どうか覚えていてください。
不安はあなたを壊すために来たのではない。
あなたに「もっと優しく生きていい」と知らせるために来たのです。
ゆっくり歩きましょう。
ゆっくり呼吸しましょう。
そして、こうつぶやいてください。
「私は、不安とともに進める。」
執着というものは、指に絡まった細い糸のようです。
強く引けば引くほど、きつく締まり、心の中で痛みを生みます。
あなたもきっと、そんな糸に気づかぬうちに触れていることがあるでしょう。大切な人、大切な想い、大切な成功。どれも美しいものなのに、ぎゅっと握った瞬間に重たく変わってしまう。
私は昔、ある老いた僧と出会いました。
彼はいつも細い竹ぼうきを手に持ち、落ち葉をゆっくり掃き集めていました。
秋の風が吹くたび、せっかく集めた葉がまた散ってしまうのに、彼は怒りも焦りも見せない。
私は尋ねました。
「なぜ、散ってしまっても気にせず掃き続けるのですか。」
老僧は私の目を見て、静かに笑いました。
「葉を集めることに意味があるのではなく、葉が散ることに腹を立てぬ心を育てているのだよ。」
その言葉は、まるで深い水におちる石のように、しずかに私の胸へ沈んでいきました。
執着とは、「こうでなくては」という固い形を心が作り、それにしがみつこうとするときに生まれます。
仏教では、これを 「取(しゅ)」 と呼びます。
取る、握る、離さない。その働きが強いほど、苦しみが増える。
これは数千年前から語られ続けている真理です。
ある弟子が、恋人を失った直後、私のもとを訪れました。
彼は涙で濡れた手を胸に当てて言いました。
「師よ、忘れたくないのです。けれど、忘れられないことが苦しいのです。」
私は焚き火のそばに彼を座らせ、手のひらを火にかざしました。
炎のあたたかさが、皮膚の表面にやわらかく触れていきます。
「この火に触れたいと思う気持ちは悪くない。
けれど、掴もうとすると火傷をする。
執着とは、火の美しさを“握ろうとする”心なのだよ。」
弟子はしばらく火を見つめていました。
ぱちぱちと小枝がはぜる音が、彼の息づかいと混じり合っていたのを覚えています。
さて、ここでひとつ小さな豆知識を。
インドの古い村では、土で作られた壺を毎晩ひっくり返して乾かす習慣があったそうです。
その理由は「執着しないため」。
どんなに美しい壺でも、毎日ひっくり返して空にすることで、「これは永遠の持ち物ではない」と体に刻む。
毎日、いったん手放す。
そうすることで、物への欲や期待が過剰に膨らむのを防いだといいます。
実に人間的であたたかな習慣です。
あなたは、何に糸を絡ませていますか。
誰かの言葉でしょうか。
未来への期待でしょうか。
過去の傷でしょうか。
その糸は、すぐに切る必要はありません。
ただ、少しずつ緩めていけばいいのです。
糸は急に解こうとすると、さらに固くなります。
でも、そっと温め、そっと揺らし、そっと息を吹きかけると、自然にほどけていきます。
私は老僧から教わりました。
「ほどくとは、手放すことではない。
ほどくとは、自由を戻すことだ。」
あなたが持っている執着も、きっとあなたを守るために生まれたものです。
愛する気持ちゆえに、頑張る気持ちゆえに、傷つきたくない気持ちゆえに。
だから責める必要はありません。
まずは、その執着をただ見つめてあげる。
「そこにいるんだね」と声をかけてあげる。
たったそれだけで、心はふっと楽になります。
深呼吸してみましょう。
吸う息が胸の奥まで届くと、からまった糸がゆるむように感じるかもしれません。
吐く息はゆっくり長く。
吐くたびに、心の中の結び目がすこし柔らかくなっていきます。
私は昔、あの老僧が掃き集めた落ち葉を見つめながら、ふと思いました。
風が吹けば散り、時間が経てばなくなる。
それを必死で握りしめても、手の中には何も残せない。
それならば、散っていくことを楽しめるほうが、ずっと自由なのだと。
あなたも覚えていてください。
執着を手放すとは、
“大切なものを失うこと”ではなく、
“心の自由を取り戻すこと”なのです。
小さな糸を一本ゆるめるたび、
あなたの世界は広くなる。
呼吸は深くなり、
心は軽くなる。
どうか、そっとつぶやいてください。
「私は、ほどくことを学んでいる。」
それだけでじゅうぶんです。
人生というのは、川の流れのように止まることを知りません。
晴れた日もあれば、濁る日もあり、静かな水面の上をすべるように進むときもあれば、渦に巻き込まれそうな勢いで揺さぶられるときもある。あなたの心もまた、その川の一部です。変わりゆくことをやめないものは、すべて流れの道理に従っています。
私はある日、川辺の大きな岩に腰を下ろし、弟子のスダッタと話をしていました。
彼は最近、仕事や家族の変化に振り回され、疲れを滲ませながらこう言いました。
「師よ、私は変化が怖いのです。安定していると思ったら、また何かが変わる。心が休まる暇がありません。」
川の水音が、ざらりざらりと砂利を転がしながら響いていました。
私はその音に耳を傾け、スダッタに問いかけました。
「なぜ変化は怖いのだと思う?」
彼はしばらく考え、
「自分が置いていかれるような気がするからです」と言いました。
その声には、幼い子が親の手を必死に握るような、かすかな震えがありました。
仏教には 「諸行無常」 という教えがあります。
すべてのものは変化し続け、どれひとつとしてとどまらない。
この真理は悲しいようにも聞こえますが、本当は大きな安心を与えてくれるものです。
――変わるからこそ、苦しみは続かない。
――変わるからこそ、喜びもまた一瞬ずつ味わえる。
変化が止まらないということは、あなたが固まってしまわないための、優しい仕組みなのです。
ここでひとつ豆知識を。
ネパールの山岳地帯では、春になると村全体で“水音を聞く儀式”を行うことがあります。
雪解けの水が流れ始める音を、みんなで静かに聴くのです。
その音が大きいほど、実りの季節が近いとされ、「流れが戻った」と喜ぶのだそうです。
変わることを怖れないどころか、むしろ祝う。
そんな文化もあるのです。
私はスダッタに、足元の石をひとつ拾って手渡しました。
「この石を川へ投げてごらん。」
彼はためらいながらも石を投げると、水面にぽちゃん、と丸い波紋が広がりました。
波紋はゆっくりと外へ広がり、やがて形を失っていきました。
「いま、何が起きた?」
「波が広がって……消えました。」
「そう、すべてはこうして変わる。
消えたのではなく、次の流れに溶けていったのだよ。」
あなたの人生に起きた変化も同じです。
終わったように見えるものも、姿を変えてあなたの中に流れ込み、新しい形となって次の瞬間をつくっています。
変化はあなたを脅かすために起きているのではなく、心が固まり過ぎないように、柔らかく保つために起きているのです。
スダッタは川を見つめながら、
「でも、私はどうしても変化を受け入れるのが苦手です」と言いました。
私は静かに呼吸し、ふっと一息を置きました。
「では、川の流れに逆らって歩いてみるといい。濡れてもかまわない。足の裏で、水の力を感じながら。」
彼は裾をまくり、水の中へ足を踏み入れました。
ひやりとした水がふくらはぎを包み、流れが彼の足を押しました。
「師よ、流れが強いです。逆らうのが難しい。」
「それが道理だ。
人は、変化に逆らおうとすると、すぐに疲れてしまう。
でも、一歩だけ流れに身を任せてみると、世界は急にやさしくなる。」
あなたにも、今日、流れに身を任せる瞬間がきっとあります。
たとえば、思い通りにいかない予定。
変わってしまった誰かの態度。
突然訪れた寂しさ。
それらを押し返すのではなく、
「こういう流れの中にいるんだな」と、そっと受け止めてみる。
すると、不思議と心の緊張がすっとゆるむのです。
呼吸してみましょう。
吸う息が未来へ、
吐く息が過去へ流れ、
今という一点にあなたを戻してくれます。
変化を拒む必要はありません。
拒むほど、流れはあなたを強く押します。
受け止めるほど、流れはあなたの味方になります。
どうか覚えていてください。
人生の流れは、あなたを沈めるためのものではない。
あなたを前へ、優しく運ぶためにあるのです。
そして、ひとつの言葉を胸に置いてください。
「流れゆくものを、信じてゆく。」
恐れというものは、誰の心にもひっそりと井戸のように存在しています。
普段はふたをして忘れているのに、ふとした拍子に覗き込んでしまう。
あなたも、そんな深い井戸を胸の奥に感じたことがあるでしょう。
そこには理由のわからない寒さがあり、底の見えない暗闇があり、
心が近づこうとすると、指先がすこし震える――そんな場所です。
ある晩、私は焚き火の前で弟子のカーラと向かい合って座っていました。
夜風が草を揺らし、火はゆらり、ゆらりと揺れながら、
橙色の光を彼の頬に落としていました。
カーラは火を見つめたまま、小さな声で言いました。
「師よ。私は“失うこと”が怖いのです。
何かを得るほど、その影に失う恐れが生まれてしまうのです。」
井戸の恐れは、こうして姿を表すのだと私は思いました。
自分ではどうにもできないもの。
人間である以上、避けることのできないもの。
その代表が、喪失への恐れです。
私は近くに落ちていた松ぼっくりを拾い、彼に手渡しました。
「カーラよ、手を開いてごらん。」
彼は松ぼっくりを手のひらにのせ、そっと見つめました。
火の光で表面が赤く照らされています。
「これを強く握りしめてみなさい。」
彼が力を込めると、尖った部分が掌に食い込み、痛みが走りました。
「痛いです……」
「そうだろう。恐れとは、この痛みのようなものだ。
失うまいと必死で握りしめるから、心が傷つく。」
カーラはゆっくり手を開きました。
松ぼっくりはそのまま彼の手のひらで転がり、
痛みはすぐに消えていきました。
風がふわりと吹き、草の香りが夜気の中に溶けていきました。
「では、私はどうすれば恐れをなくせるのでしょうか」と彼は尋ねました。
私は首を振りました。
「恐れを“なくす”必要はない。
恐れを“理解する”のだ。
そして、そのそばに灯りを置くように、そっと寄り添うのだ。」
仏教では、恐れは無明(むみょう)――真理を見失った状態から生まれると説きます。
人は暗闇を怖がるけれど、恐れているのは「暗闇そのもの」ではなく、
“そこに何があるかわからないこと”。
つまり、未知が恐れの正体です。
ここでひとつ、面白い豆知識を。
古代の瞑想者たちは、夜の洞窟へ出向き、
暗闇の中で静かに座る修行を行っていたそうです。
意図的に“見えない”場所へ行き、自分の恐れを観察する。
そうすると、恐れは怪物のように膨らむのではなく、
ただの揺らぐ影に戻っていったといいます。
人の心は、向き合った途端に闇を薄める力を持っているのです。
私はカーラに言いました。
「井戸を覗くときは、怖くてもよい。
ただ、覗いた自分を責めてはいけない。
井戸を覗くあなたは、弱いのではない。
深さを知ろうとしている勇者なのだ。」
あなたにも、心の井戸があります。
そこに近づく日は、背中が少し冷たくなり、
何か大切なものを落としてしまいそうで不安になるでしょう。
でもね、恐れはあなたを壊すためにあるのではありません。
恐れは、あなたが“ほんとうに大切にしているもの”を照らし出すために現れます。
深呼吸をしてみましょう。
吸う息が胸に灯りをともすように、
吐く息が井戸の暗さを静かにやわらげるように。
恐れは敵ではありません。
恐れは道しるべです。
あなたが大切にしているものがどこにあるのかを教えてくれる、
心の奥の案内人なのです。
カーラはやがて、小さく微笑みました。
「師よ……私は恐れから逃げなくてもいいのですね。」
私は頷きました。
「逃げなくていい。
むしろ、恐れとともに歩むのだ。
そうすれば、恐れはあなたを追わなくなる。」
夜空には星がひとつ、またひとつと滲むように現れ、
風は穏やかに私たちの衣を揺らしました。
そのときカーラの心に、井戸の深さではなく、
上に広がる空の広さが映ったことでしょう。
どうかあなたも、そっとつぶやいてください。
「恐れよ、共にいよう。」
その言葉が、井戸の底に小さな灯りをともすはずです。
死という言葉を聞くと、胸の奥でそっと何かが動きますね。
深い井戸のさらに底、その静けさの向こう側にあるもの――
私たちは普段そこに蓋をし、見ないようにして過ごしています。
けれど、ときに夜の風がふっと吹き、
その蓋がかすかに揺れる瞬間があります。
あなたもきっと、人生のどこかで
「いつか終わりが来る」という感覚に触れたことがあるでしょう。
ある夕暮れ、私は弟子のマールガと海辺を歩いていました。
潮の匂いが濃く、波がゆっくりと寄せては返し、
その白い泡が足元でほどけていきました。
水平線には、沈みかけの太陽が大きな赤い円を描いていました。
マールガは波を見つめながら言いました。
「師よ、私は“死”を考えると胸がざわつきます。
自分がいなくなることを思うと、
今あるものすべてが儚く見えてしまうのです。」
私はしばらく沈黙し、海の音に耳を預けました。
波音は決して同じ形では戻ってきません。
けれど、その不規則の奥には、
人の鼓動のような一定のリズムが宿っています。
「マールガよ、死を思うことは恐れではなく智慧への扉だ。
終わりを知るからこそ、始まりの美しさが際立つのだよ。」
仏教には 「無常観」 という修行があります。
生きとし生けるものが必ず変化し、
必ず終わりを迎えるという真理を、
逃げずに、そっと見つめる訓練です。
これは苦しめるための修行ではなく、
“いま”をありありと輝かせるための眼差しを育てるものです。
ところで、ひとつ興味深い豆知識を。
古代の僧院には「骨堂」と呼ばれる場所があり、
そこには亡くなった修行者の骨が静かに置かれていました。
弟子たちはそこを訪れ、
“いつか自分もここに還る”という感覚に触れながら
心を澄ませていったといいます。
恐怖ではなく、むしろ深い安らぎを得るために。
死を思うことは、生の輪郭をくっきり優しく浮かび上がらせる行なのです。
マールガは波に向かって小石を投げました。
小さな音とともに波紋が生まれる。
次の瞬間、波はその波紋をさらりと消しました。
「師よ、私の生も、この波紋のようにすぐ消えてしまうのでしょうか。」
私はその肩にそっと手を置きました。
「波紋は消えるように見えるが、
水の中には、その揺れが確かに伝わっている。
誰の目にも見えなくとも、
世界はあなたの存在によって変わり続けるのだよ。」
あなたにも、きっと思い当たる瞬間があるはずです。
あなたの言葉で救われた誰か。
あなたが笑ったことで、ほっと息をついた誰か。
あなたの優しさで、今日が少しだけ変わった人。
その“見えない波紋”は、決して消えません。
死を恐れる心は、人として自然なものです。
その恐れを否定する必要はありません。
ただ、そっと両手で包むように受け止めてみてください。
「終わりがあるから、いまが大切になる」
このシンプルな事実が、心に灯りをともしてくれます。
私はマールガに言いました。
「死を見つめることで、
生きているという奇跡は、より鮮やかになる。
恐れではなく、
感謝が胸に満ちてくるのだ。」
あなたも、少しだけ呼吸を深めてみましょう。
吸う息が胸にあたたかい灯りをつけ、
吐く息が静かに波をなでるように広がっていく。
死という静けさに触れるとき、
人生のざわつきがふっと落ち着き、
“いまここ”のやわらかな手触りが戻ってきます。
どうか覚えていてください。
死は脅威ではなく、
“いのちをやさしく照らす光”のような存在です。
そして、胸の奥でそっとつぶやいてください。
「私は、生を味わうために、死を思う。」
その言葉は、心にひとつの静かな灯をともすでしょう。
受け入れるということは、
“あきらめ”とはまったく違うものです。
あなたもきっと、その違いを
どこか心の奥で感じているのではないでしょうか。
あきらめは心を閉ざす行為ですが、
受け入れるというのは、
心をそっと開きなおす行為だからです。
ある朝、私は山寺で薄明の光を浴びながら瞑想していました。
空気は冷たく、松の香りが遠くの風に運ばれてくる。
その静けさの中へ、弟子のスバシがゆっくり歩いてきました。
彼の足音は、まだ夜の眠気が残る土の上でやわらかく広がり、
どことなく迷いを含んでいました。
「師よ、私は抗うことに疲れてしまいました。
状況が変わらないのなら、どうすればよいのかわからないのです。」
私は深く息を吸い、
白んでいく空を眺めながら答えました。
「スバシよ、抗うことをやめるのは敗北ではない。
それは、もっと広い世界へ戻るための第一歩だ。」
私たちは皆、心のどこかで
“こうあるべき”という形を抱えています。
そして、その形から外れた瞬間に、
世界がゆがんで見えてしまう。
そのゆがみに抵抗し、
必死で形を引き戻そうとするほど、
苦しみは深くなっていくものです。
仏教では、心の苦しみを和らげる道として 「受(じゅ)」 を説きます。
起こるものを拒まず、
過ぎ去るものを追わず、
ただあるがままを見つめる。
それは消極的な態度ではなく、
むしろ“最も積極的な生き方”です。
ここでひとつ面白い豆知識を。
ミャンマーの僧院では、雨季のあいだ寺にこもる修行期間を「安居(あんご)」と言います。
外へ出られない環境に置かれることで、
僧たちは“状況を受け入れる”力を深めていったのです。
変えられないものと共に過ごすことで、
心は外側の状況ではなく、
内側の静けさを見るようになるのだといいます。
受け入れるとは、
限られた状況の中で自由を見つける訓練なのです。
スバシは眉を寄せ、
「受け入れるとは、どういう感覚なのですか」と尋ねました。
私は少し考え、地面に落ちていた杉の葉を手に取りました。
指先に触れるその葉は乾いていて、
少し曲がった形をしていました。
「この葉をまっすぐにしようと思えば折れてしまう。
でも、この曲がりをそのまま眺めると、
‘こういう形も美しい’ と気づくことがある。」
スバシは葉を見つめ、
指でそっとなぞりました。
朝の光が葉の小さな影を彼の掌に落とし、
その影が震えるたび、
彼の心もまた静かに揺れているように感じました。
あなたにも、きっと曲がった葉のような出来事がありますね。
思い通りにいかない現実。
変わってほしい誰か。
どうしても消えない痛み。
でも、それらを「間違い」と決めつけないでください。
受け入れるというのは、
その“曲がり”を抱きしめることです。
抱きしめた瞬間、
世界はふっと柔らかく見えはじめ、
あなたの呼吸が深く戻ってきます。
深呼吸してみましょう。
吸う息で胸がわずかに広がり、
吐く息で肩の力がすっと抜けていく。
あなたの中で、拒んでいたものの輪郭が緩み、
「まあ、これでいい」という
やさしい声が生まれてくるのを感じませんか。
スバシはやがて、細く微笑みました。
「師よ、受け入れるというのは、
‘負け’ ではなく、
‘自分を赦すこと’ なのですね。」
私は頷きました。
「そうだよ。赦された心は、自由になる。
自由になった心は、軽くなる。
軽くなった心は、どんな場所でも歩いていける。」
あなたも覚えていてください。
受け入れることは、
状況に屈することではなく、
自分の心を解放することなのです。
そして、そっとつぶやいてください。
「私は、受け入れることで自由になる。」
その言葉は、胸の奥に新しい風を運んでくれるでしょう。
のんきに生きるというのは、
ただ気ままに過ごすという意味ではありません。
それは、人生の川をゆったりと下る舟のように、
“急がず・逆らわず・たゆたうように”
生きる姿勢のことです。
あなたの胸のどこかで、
ずっと求めていた温度でもあるでしょう。
ある晴れた午後、私は草原の道を歩いていました。
陽射しはやわらかく、草の先に触れるたび
小さな影がふるえ、空気には乾いた夏草の香りが漂っていました。
そこへ、弟子のサーメルが駆けてきて、
息を切らしながら言いました。
「師よ、私はがんばっても報われず、
休めば怠けているようで、
どう生きればよいのかわからなくなりました。」
サーメルの瞳には、
長いあいだ自分を張りつめてきた者だけが宿す
深い疲れの色がありました。
私は彼に歩調を合わせながら、
ゆっくりと草を踏みしめる音を聞いていました。
さく… さく… と乾いたやさしい音が、
少年の迷いをほぐしていくようにも思えました。
「サーメルよ、のんきに生きるとは、
‘どうでもいい’ と投げ出すことではない。
むしろ、 ‘いまを大切にする’ という
一番ていねいな生き方なのだよ。」
彼は足を止めました。
「いまを大切に…? それだけで良いのですか?」
「そうだよ。
未来を心配しすぎると、人は急ぎすぎてしまう。
過去にとらわれすぎると、人は立ち止まりすぎてしまう。
のんきとは、そのどちらにも偏らず、
‘いま’ に心を置いて歩くことなんだ。」
仏教には 「念(マインドフルネス)」 という実践があります。
目の前の瞬間に気づきながら生きる姿勢。
ひと呼吸ごとに、心をいまここへ戻す技です。
これは単なる集中ではなく、
“人生をやさしく味わう”ための知恵なのです。
ここでひとつ、面白い豆知識を。
スリランカの僧院では、修行者が一日に数回、
“無駄に見える”数分間の休息を取る習慣があるのだそうです。
ただ座り、風の音を聞き、
何も成し遂げず、何も急がず、ただそこにいる。
それが心の再生の時間であり、
智慧を深めるために不可欠だとされています。
無駄に見える時間こそ、
ほんとうは人を豊かに育てる時間なのだということです。
私はサーメルに、
そっと胸に手を当てるよう促しました。
「どうだい。心のどこかで、小さな力みがほどけていくのを感じるかい。」
彼は目を閉じ、
「少しだけ… やわらかくなった気がします」と答えました。
その瞬間、風がふっと吹き、
草原いっぱいに優しいざわめきがひろがりました。
「サーメルよ、のんきとは、
力を抜くことに罪悪感を持たない生き方だ。
自分を急かさないこと。
‘いま’ を丁寧に味わうこと。
その積み重ねが、静かな幸福を育てる。」
「でも、師よ。私はまだ、自分がのんきに生きられるとは思えません。」
私は笑いました。
「のんきは ‘技術’ ではない。
‘方向’ のようなものだよ。
そちらを向きさえすれば、
歩く速さは関係ない。」
あなたも同じです。
完璧にのんきになろうとしなくていい。
ただ、心の向きをすこし変えてあげるだけでいい。
たとえば――
・急ぐ気持ちが出てきたら、深呼吸をひとつ。
・不安が胸に満ちたら、空を見上げる。
・疲れたら、足を止め、風の匂いを感じる。
たったそれだけで、
人生は驚くほどやわらかく、あたたかい表情を見せてくれます。
サーメルは最後に、静かに微笑みました。
「師よ、私はのんきという言葉が、
こんなにも優しい意味を持っていたとは知りませんでした。」
私は頷き、彼とともにゆっくり歩きはじめました。
草の匂い、空の青さ、風の手触り。
世界は本来、急がない者に微笑むようにできているのです。
あなたも、今日のどこかで
“のんきな一瞬”を持ってみてください。
ほんの数秒でいい。
その数秒が、心をやわらかくし、
あなたという舟をそっと前へ運んでくれます。
覚えていてください。
のんきに生きるとは、
幸せを外へ探しに行くのではなく、
すでに胸の中にある静かな光に気づくこと。
そして、そっとつぶやきましょう。
「私は、のんきに生きることを許されている。」
その言葉が、
あなたの人生をふわりと照らしはじめるでしょう。
夜が静かに降りてくるとき、世界は少しだけ優しくなります。
昼のあわただしさが薄れ、心の輪郭がふわりとゆるみ、
あなたの呼吸がようやく自分のペースを取り戻していく。
その静けさの中で、私たちはふと気づきます。
ああ、今日もいろいろあったけれど、
こうして息をしているだけで、もう十分なのだな、と。
風がやわらかく窓辺を撫でていきます。
その風は、あなたの心の中にもそっと入り込み、
張りつめていたところをほぐし、
余白をひとつ、またひとつつくっていきます。
余白は、心の呼吸です。
余白があるから、人は優しくなれるのです。
水面に月が映るように、
静かな時間の中では、あなたの心にも光が宿ります。
とくに何もしていないのに、
ただ座っているだけで、
胸のあたりが少しあたたかくなるような、
そんな不思議な感覚が広がっていきます。
人生は、がんばるためだけにあるのではありません。
抱えすぎた荷物を一度おろし、
風に吹かれ、
星を眺め、
そしてまた歩きたくなったら歩けばよい。
そんなゆるやかなリズムで生きていいのです。
今日語ってきたすべての教え――
のんきさ、受容、解放、静けさ。
それらはあなたの外にあるのではなく、
もともと胸の奥に眠っていたものです。
あなたが気づくのを、ずっと待っていたのです。
どうか今夜は、
自分に優しくしてあげてください。
深く息を吸い、
ゆっくり吐いて、
心がひとつ、やわらかく波打つのを感じてみましょう。
夜はあなたを包み、
風はあなたを運び、
静けさはあなたを癒やします。
明日のことは、明日に委ねていいのです。
いまはただ、安らぎの中に身を浸していましょう。
そして、そっと目を閉じる前に、
胸の奥でつぶやいてください。
「私は、いま、ここにいる。」
それだけで、心は静かに整っていきます。
