朝の光が、まだやわらかい金色の布のように地面を包んでいました。私があなたに語りかけたいのは、そんな静けさの中でふと芽生える、小さな悩みのことです。胸の奥に、名前のつかない棘のようなものが刺さる瞬間。大したことではないはずなのに、じんわりと心を曇らせてしまう、あの感じです。誰にも言わずにしまい込むような、小さな痛み。けれど、たいていの大きな苦しみは、その小さな痛みから始まります。だからこそ、私はまずそこで立ち止まりたいのです。
あなたも、そんな朝を経験したことがあるでしょう。窓を開けたときの冷たい空気が肌をなでるのに、心の内側だけが少し重い。昨日の会話、言われた一言、何気なく流してしまった瞬間。それらが、気づけば胸に小さな石をひとつ落としている。手のひらに乗せれば吹き飛びそうなほど軽いのに、内側に置くと、どうしてあんなにも重たく感じるのでしょうね。
弟子のひとりが、以前こんなことを言いました。「師よ、些細なことなのに考えが止まらず、気づけば半日が憂鬱で満たされていました」と。私は彼に聞きました。「その考えは、あなたの許しなく心に入り込んだのか」。弟子は首を横に振りました。「自ら扉を開けて迎え入れました」と。そうなのです。小さな悩みほど、私たちは気づかぬうちに“どうぞ入ってください”と招いてしまう。だから苦しくなるのです。
静かに耳を澄ませてみましょう。今、この瞬間の空気の音。あなたの周りにも、きっとわずかな風の動きがあるはずです。悩みはその風とは違い、重みを持ちます。風は流れ、悩みは留まる。けれど、仏教の教えでは、すべてのものは流れ、留まり続けるものはないと説かれています。小さな悩みでさえ、生まれ、しばらく滞り、そして消えてゆく。あなたが、執着しさえしなければ。
ひとつ、あなたに豆知識をお伝えしましょう。人は一日に約6,000もの思考を抱くとされます。そのほとんどは意識されずに過ぎていくけれど、たった数個の“心に引っかかる思考”が、一日の気分を左右してしまう。つまり、あなたが苦しいのではなく、苦しみを選んだ思考にただ捕まってしまっただけなのです。
呼吸を感じてください。胸とお腹の動きが、ゆっくりと波のように上下します。その波に、小さな悩みをそっと乗せてみてください。押し流そうとしなくてかまいません。抵抗しない。ただそこに置くだけでよいのです。
弟子たちに私はよく伝えました。「苦しみの正体は、気づかれた瞬間に半分ほどほどけてしまう」と。あなたの中にある小さな棘も、いま光の中に出てきました。隠し続けていたものが、ようやく呼吸できる場所に帰ってきたのです。心は、それだけで少しゆるみます。
今、あなたの胸の奥でどんな感覚がしますか。冷たさでしょうか、温かさでしょうか。触れたくない感情ほど、手をのばしてみると意外にやわらかいものです。手のひらに乗せてみれば、石だと思っていたものが木の葉ほど軽いこともある。
朝の光は、あなたの悩みごとなど気にも留めず、ただやさしく降り注いでいます。自然はあなたの不安に何の評価も下しません。ただあるがままを照らすだけ。その中で、あなたが少し肩の力を抜くだけで、心はほどけ始めます。
小さな悩みよ、ありがとう。あなたが私に“立ち止まる時間”を教えてくれた――そう思える日が必ず来ます。いまはまだ、その手前でいいのです。焦らず、急がず、ただひとつ呼吸をする。その呼吸の中に、すでに解放の入口があります。
やわらかく、静かに。
「安心は、いつもすぐそばに。」
朝の空気には、まだ夜の名残が少しだけ混じっています。窓を開けると、冷たさと温かさが溶けあうような匂いがふっと流れ込み、肌にそっと触れます。そんな何でもない朝にも、心がざわつく瞬間は訪れます。理由はよくわからない。体調が悪いわけでも、特別な出来事があったわけでもない。ただ、胸の奥がそわそわと揺れ始める。そんな「理由のない不安」の朝です。
「師よ、今朝は妙に心が落ち着かないのです」と、ある弟子が言いました。私は彼の横に座り、しばらく一緒に風の音を聞いていました。山の向こうから届く細い風の笛のような響きが、ゆっくりと木々にほどけていきます。その音に耳を澄ませながら私は言いました。「不安は、敵ではなく合図ですよ。何かが壊れたのではなく、何かに気づきなさいという知らせなのです。」
あなたが感じているざわつきも、壊れた心の証ではありません。もっとやわらかいものです。たとえば体が、寒さを感じたときに震えるように、心もまた、環境の“揺れ”に反応して震えることがある。そう思うと、少しだけ優しく受け取れませんか。
私たちが不安を嫌うのは、不安がもたらす未来への想像が暴れすぎるからです。まだ起きてもいないことが、勝手に心の中で膨らみ、姿を変え、脅かしてくる。まるで霧の中に大きな獣が潜んでいるように見えてしまう。でも、その霧に手を伸ばしてみれば、指の間からすぐに抜けていく。ただの空気だった、と気づくこともあります。
仏教では“不安は心の投影にすぎない”と説かれます。外に敵がいるのではなく、心がつくり出した影が揺れているだけ。影を追い払おうとすると、余計に大きくなります。でも、そっと光をあてると形がぼんやり見えてきて、ただの木の枝だったと気づく。それだけで、不安はすっと小さくなるのです。
ひとつ、意外な豆知識をお話ししましょう。人は不安を抱くと、匂いに敏感になるのだそうです。生存の本能として周囲を警戒しようとするからです。だから、あなたが朝の匂いに少し敏感になっているとすれば、それは異常ではなく、心があなたを守ろうとしている証です。なんだか愛おしいと思いませんか。
さあ、深く息を吸ってみましょう。朝の空気がひんやりと喉を通り、胸に満ちていくのを感じます。ゆっくり吐くと、そのざわつきが少し揺らぎ、重さが緩むのがわかるはずです。「呼吸を感じてください」。それだけで、不安の波は少し静まります。波は止められませんが、寄せる音を聞くことはできます。その音をただ聞いているうちに、波は勝手に弱まっていくのです。
弟子に私はこう言いました。「今朝の不安には名前がありますか?」彼は首を振りました。「では名前を付けてみなさい」私は言いました。しばらく考えたあと、彼は「ゆらぎ」と名付けました。私は笑いました。「いい名前です。その“ゆらぎ”は、あなたを壊しに来たわけではない。ただ、心が今いる場所を確かめようとして揺れているだけなのです。」
あなたも、いま胸に感じているざわつきに名前を付けてみてもよいでしょう。名前をつけた瞬間、それは“あなたとは別のもの”になります。そして少し距離が生まれます。その距離こそ、安心への通路です。
朝の匂い、光の揺れ、風の音。自然はあなたの不安に気づいても、それを裁くことはしません。ただ“そこにあるもの”として包み込んでくれる。あなたが自分の不安を拒むとき、苦しみが始まります。あなたが不安に「そこにいていいよ」と言うとき、安心が始まります。
あなたは恐くないのです。
あなたは壊れていないのです。
あなたは、ただ揺れているだけなのです。
揺れは悪ではありません。揺れがあるからこそ、静けさもまた感じられます。あなたの心にも、いずれ必ず風が止まる瞬間が訪れます。そのとき、不安の朝は本当に静まり、あなたは少しだけ優しくなっています。他人にも、自分にも。
どうか覚えていてください。
「安心は、追うものではなく、気づくもの。」
夕方の光が差し込み、部屋の片隅に長い影を落としていました。そんな時間帯は、思考がふくらみやすいものです。あなたの頭の中でも、きっと小さな考えがひとつ、またひとつと芽を出し、やがて絡み合って渦のように回り始めることがあるでしょう。止めようとしても止まらない。追い払おうとしても形を変えて戻ってくる。まるで、手のひらですくおうとしても滑り落ちてしまう水のようです。
「師よ、考えすぎて心が疲れてしまいました」と、若い弟子がある日ぽつりと言いました。私は外に連れ出し、静かな池のほとりに座らせました。水面には白い雲がゆっくりと漂い、風が吹くたびにわずかな波紋が広がります。「この波紋があなたの思考のようなもの」と私は言いました。「さわらなくても、しばらくすれば必ず静まります。」
あなたの心にも、水面のような性質があります。揺れても、濁っても、放っておけば自然に澄んでくる。なのに私たちは、急いでかき混ぜ、より濁らせてしまうことが多い。考えすぎとは、まさに自分で自分の心を濁らせてしまう行いなのです。
思考の渦が強くなるとき、あなたの内側には「何とかしなければ」という焦りが生まれます。その焦りこそが渦をさらに勢いづける燃料となり、心が苦しくなっていく。だけど、覚えていてください。渦の中心には、いつも“静かな空洞”があります。どれほど激しく回っていても、中心は揺れません。そこがあなたの本来の心です。渦はただその周りを回っているだけなのです。
私は弟子に小石を渡しました。「この小石を池に落としてみなさい。」彼がそっと石を落とすと、水面に円が広がりました。「いまの円は、あなたの思考です。広がって消える。それだけのこと。」弟子はまじまじと水面を見つめ、しばらくして微笑みました。「消えるんですね」と。私は頷きました。「そう、必ず消える。不安も思考も、永遠に続くことはありません。」
仏教には、思考は“無我”の働きだとする教えがあります。つまり、考えはあなたそのものではなく、あなたの中に生まれては消える現象のひとつでしかないという事実です。これを理解すると、「思考が止まらない自分はダメだ」と責める必要がなくなります。あなたは悪くない。ただ、心が少し忙しくなっているだけなのです。
ひとつ豆知識をお伝えしましょう。脳は“問題を解決していない”と判断すると、眠っている間でさえその問題を再処理しようとします。寝つけない夜ほど、思考の渦が大きく感じられるのはそのためです。だから、いま苦しいのはあなたではなく、あなたを守ろうと必死に働いている脳なのです。なんだか、いじらしく思えてきませんか。
あなたの胸の奥に、今どんな音がしていますか。波のようでしょうか、それとも雨だれのような静けさでしょうか。少し耳を澄ませてみてください。思考の渦が回っているときでも、音の世界は決して渦に飲み込まれません。世界はいつも、あなたの迷いとは関係なく静かに動き続けています。
深く息を吸い、ゆっくり吐きましょう。呼吸の音は、渦の外側にある世界の音です。その音に意識を向けると、渦は少しずつ弱まります。まるで遠ざかる風のように。
「今ここにいましょう。」
そう自分に言ってみてください。渦は過去か未来にしか存在できません。今この瞬間には、渦の居場所はないのです。
弟子は池の水面を指差して言いました。「水を手で押さえつければつけるほど、大きく揺れてしまうのですね」
私は微笑みました。「そう。そして手を離せば、静けさは自然に戻る。」
「心も同じだ」と私は続けました。「押さえつけるのをやめればよい。考えすぎに抵抗する必要はない。ただ“いま渦が回っているな”と気づくだけでよい。」
気づきは、最初の解放です。
気づきは、あなたを縛らない。
気づきは、あなたの味方です。
窓の外で風が枝を揺らし、葉がふるふると震える音が聞こえます。その震えは、一瞬のものでありながら、どこか愛おしい。あなたの思考の渦も同じように、一瞬の揺れとして扱ってみてください。
いま、あなたの心がどれほど騒がしくても、中心には必ず静けさがあります。そこへ戻る道は、いつでも呼吸の中にあります。
忘れないでください。
「渦はあなたではない。あなたは、静けさのほうです。」
夕暮れの色が空にとけていくころ、あなたの心にはどんな影が差し込むでしょうか。ストレスという影は、突然に襲いかかるように見えて、じつは静かに忍び寄るものです。いつの間にか肩が重くなり、呼吸が浅くなり、胸がぎゅっと縮まるような感覚が広がっていく。その正体を知らぬまま、ただ「つらい」と感じてしまうことが、どれほど多いことでしょう。
ある弟子が、ある日うなだれて寺に戻ってきました。「師よ、心が重くて、何も手につきませんでした」と言うのです。私は彼に湯気の立つお茶を手渡し、しばらく黙ってその匂いを感じてもらいました。温かい香りが鼻先にふわりと触れ、彼の肩がほんの少しだけ落ちました。「感じますか?」と聞くと、彼は小さく頷きました。「ストレスとは、こうした“感じる余白”を奪ってしまうものなのです。」
ストレスの源は、決して外側だけにあるわけではありません。多くの場合、心の奥に潜む“こうあるべきだ”という固い思い込みが、あなた自身を締めつけています。完璧でいなければならない。間違えてはいけない。誰かの期待に応え続けなければならない。そんな見えない鎖が、知らないうちに体中に巻き付いてしまう。
仏教ではこれを“執着”と呼びます。善いことに執着すれば善くなるように思えるのに、実際には心を狭くし、苦しみを深くすることがある。ストレスとは、執着が形を変えてあなたを襲ってくる影のようなものです。影は光がなければ存在できません。あなたが必死に“こうでなければ”という光を強く照らしすぎるから、影が濃くなってしまうのです。
ひとつ、興味深い豆知識をお伝えしましょう。人はストレスを感じているとき、周囲の音を“危険なもの”として判断しやすくなるそうです。普段なら気にならない車の音、風が窓を揺らす音までもが、どこか不安を刺激してくる。脳があなたを守るために働いているのですが、守り方が少し大げさなのです。あなたは壊れていません。守ろうとしているだけなのです。
弟子に私は尋ねました。「その重さは、どこにありますか?」
彼は胸に手を当て、「ここです」と言いました。
「ではそこに優しく触れてみなさい」と私は言いました。
彼は戸惑いましたが、やがてゆっくりと手のひらで胸を押さえました。
「どうですか?」
「少し、あたたかいです」と彼は驚いたように言いました。
そう、不思議なことに、ストレスを“感じる”と、ストレスは少し弱まります。逃げたくなる気持ちをやめて、ただそこにある重さに手を当てると、影は輪郭を失い、風に溶けるように軽くなっていくのです。
あなたも、胸に手を添えてみてください。
温度があります。
鼓動があります。
それは、生きている証であり、あなたが今を懸命に生きているという確かな響きです。
深く、ひと息。
「呼吸を感じてください。」
吸うたびに胸の内側がゆるみ、吐くたびに影がやわらかくなるのを感じるかもしれません。呼吸には、影と光の境界を溶かす力があります。呼吸は、あなたの中で最も誠実な動きです。何も言わず、ただあなたの味方であり続けてくれる。
弟子に私はこう告げました。「ストレスは敵ではなく、心が助けを求める合図だよ。影が差しても、あなたの本質は光なのだと忘れないでいなさい。」
彼はその言葉を聞いて、ようやく深い深いため息をつきました。それは疲れではなく、解放のため息でした。
今あなたの心にも影が落ちているなら、それは悪いことではありません。影は、あなたが光を持っているという証です。光のないところに影は生まれません。
どうか心に置いてください。
「影はあなたではない。影が差しても、あなたの光は消えない。」
夜が深まり、寺の回廊に冷たい風がすべり込んでくるころ、私はよく“執着”について語ります。執着は、目に見えない小さな牢のようなものです。牢とは言っても立派な門もなければ鍵もありません。ただ、気づかないうちに心がそこに座り込み、出られなくなったように感じてしまうだけ。あなたが苦しむとき、その苦しみの根の多くは、この見えない牢にあります。
あなたは最近、何かを「手放せない」と思ったことがありますか?
うまくやらなければならないという思い。
誰かの評価。
期待。
後悔。
未来への不安。
どれも形がなく、触れられない。けれど、心をぎゅっと掴んで離さない力を持っているように感じるでしょう。
ある日、ひとりの弟子が私のところへ来てこう言いました。「師よ、どうして私は失敗を恐れてしまうのでしょう。頭ではわかっているのに、心が離してくれません。」
私は彼の手に、古い布切れを渡しました。「これを握りしめてみなさい。」弟子は強く握りました。
しばらくして、私は言いました。「では、そのままで手を開きなさい。」
弟子は眉を寄せ、「難しいです」と答えました。
「そう。執着とはその“難しさ”そのものなのです。」
執着は、あなたが握りしめた布です。けれど、布そのものがあなたを縛っているのではありません。握っている“手”のほうがあなたを縛っているのです。
仏教では、執着を「取(と)」と呼びます。何かを“良いもの”と判断して掴んでしまう心の働きです。不思議なことに、苦しみの多くは、悪いものではなく“良いと思い込んだもの”を離せないときに生まれます。成功。愛。正しさ。幸福。どれも本来は美しいものなのに、それにしがみつくと苦しくなる。まるで水を掴もうとするようなものです。水は掴めません。掴もうとした瞬間にこぼれていくだけです。
ひとつ、興味深い豆知識があります。人間の脳は“所有したもの”を失うほうが、新しく得る喜びよりも何倍も強い痛みとして感じるように作られています。これを損失回避と呼びます。この脳の仕組みが、執着を強めてしまうのです。だから、離せないのはあなたが弱いからではなく、脳があなたを守ろうとしているから。役目を果たそうと必死なだけなのです。
弟子に私は続けてこう言いました。「手を少しゆるめてごらん。」
彼はほんのわずかに指を広げました。
「それでいい。そのわずかな隙間から、自由が入り込むのです。」
執着を手放すとは、無理に投げ捨てることではありません。
嫌いになることでもありません。
拒絶することでもありません。
ただ、握りしめていた手を“ほんの少しゆるめる”だけ。
すると、手のひらに風が通り、布が軽く揺れ、あなたは自分が牢の外に立っていることに気づくのです。
あなたがいま、何かにしがみついていると感じるなら、そのしがみつきはあなたを守ろうとした結果生まれたものです。責める必要などまったくありません。むしろ、その頑張りをそっと撫でてあげればよいのです。
胸に手を置いて、静かに呼吸をしてみましょう。
吸うたびに胸がひらき、吐くたびに肩が落ちていく。
「呼吸を感じてください。」
その呼吸ひとつひとつが、あなたの“握りしめているもの”をゆるめる合図です。
ある夜、同じ弟子が言いました。「手をひらこうとすると、怖くなるのです。」
私はほの暗い蝋燭の火を指差して言いました。「火は、握りしめれば燃え、離せば温かく照らすだけ。執着も同じです。掴むと痛む。離すと光になる。」
あなたが恐れるのは当然です。手を離す瞬間、心は“何もなくなってしまうのでは”と怯えます。でもその瞬間、世界はこう囁きます。「大丈夫、あなたは空っぽではない。空であるからこそ、あらゆるものを受け取れるのだ」と。
仏教の教えの中には「空(くう)」という言葉があります。すべての形あるものは変わりゆき、留まらないという真理です。あなたが掴んでいるものもまた、変わりゆくもの。だから、手放しても失われるのではなく、ただ姿を変えて流れていくだけなのです。
川の水が手の間からこぼれても、川は消えません。
あなたが手を離しても、あなたの世界は消えません。
静かに目を閉じてみてください。
いま掴んでいるものの重さを感じてみてください。
そして、ほんの少しだけ指をゆるめてみましょう。
その瞬間、心に風が通り抜けます。
風は言います。「自由は、あなたの外にあるのではなく、あなたの手のひらのゆるみの中にあるのだ」と。
どうか忘れないでください。
「手放すとは、失うことではない。帰っていくことです。」
川のほとりに立つと、あなたはどんな気持ちになりますか。
水が絶えず流れている音は、不思議と心を静かにしながら、同時にどこかざわめかせることもあります。
そんな“流れ続けるもの”の前に立つと、人は自分の不安の正体を思い出すのです。
中くらいの不安というものは、急に襲いかかる嵐のような恐怖ではありません。
けれど、日々の生活の中でじわじわと心を締めつけ、気づけば息苦しさを覚えるような――そんな種類のものです。
あなたにも、ふと「この先、うまく渡っていけるだろうか」と胸が重くなる瞬間があるかもしれません。
未来の川を前に立ち止まり、流れの速さを測り、浅瀬を探し、渡る方法を探し続ける。
その探すという行為そのものが、不安を育ててしまうことがあります。
弟子のひとりが、ある日こんなふうに尋ねました。
「師よ、未来が心配でたまりません。川の流れが強すぎて、足を踏み入れることが恐ろしいのです。」
私は彼とともに川辺に座り、流れの音に耳を澄ませました。
「川の流れを止めたいと思いますか?」と私が問うと、彼はすぐに首を振りました。
「いいえ、止めたら川ではなくなってしまいます。」
私は微笑みました。「そう。不安も同じです。止めようとすると、かえって濁り、勢いを増す。
けれど、不安の上にただ浮かぶように身を預ければ、その力はあなたを運び、向こう岸へと近づけてくれる。」
不安の川とは、あなたの未来への想像が流れてゆく場所です。
流れに逆らって泳げば疲れ果て、やがて沈んでしまう。
けれど、仏教の智慧はこう語ります。
“逆らわず、ただ浮かべばよい。”
浮かぶとは、放棄ではありません。
未来を捨てることでも、あきらめることでもありません。
ただ、今あなたが立っている場所に重心を戻し、自然の流れを信じてみるという行為です。
あなたが胸に抱えている不安は、きっと「まだ起きていない未来」についてのものが多いでしょう。
未来の病、未来の失敗、未来の孤独。
でも、ひとつ覚えておいてください。
あなたの心と体が実際に存在できるのは“今”だけなのです。
未来の不安は影のようにあなたを追ってきますが、影は光の位置が変われば形を変えます。
不安の川は、あなたが“今”に戻るたびに、水量が静かに減っていくのです。
ここでひとつ、豆知識をお話しします。
人間の脳は、未来を想像するとき「実際に体験しているとき」とほぼ同じ反応をするのだそうです。
だから、未来を心配するだけで、体はストレス物質を作り始める。
あなたが実際に危険の中にいるわけではないのに、体は必死にあなたを守ろうとして緊張します。
つまり、不安で疲れるのは、“体が優しすぎるから”なのです。
川辺に座っていた弟子の耳に、風の音がふっと入りました。
葉が擦れ合う音は、水音と溶け合い、まるで大地全体が呼吸をしているようでした。
弟子はその音にしばらく耳を澄ませ、やがてこう言いました。
「川が怖いのではなく、自分の足でしっかり立てるかどうかが怖かっただけなのですね。」
私は深く頷きました。「そう。不安とは、未来が怖いのではなく、“自分を信じきれない”ことから生まれる。」
さあ、あなたも一度呼吸をしてみましょう。
深く吸って、ゆっくり吐く。
胸の奥で、わずかな波が静まっていく感覚があるかもしれません。
「呼吸を感じてください。」
呼吸は、今この瞬間にあなたを戻す舟です。
過去からも、未来からも、そっとあなたを連れ戻してくれる小さな舟。
もし、いま不安という川の前で立ちすくんでいるのなら、焦る必要はありません。
川は逃げません。
そしてあなたもまた、急いで渡る必要などありません。
流れを見つめ、音を聞き、風を肌で感じ、“いま”を確かめる。
そのたびに川はやさしくなり、あなたの足元に浅瀬をつくってくれるのです。
どうか覚えていてください。
「不安の川は、逆らう者を呑み込み、身をゆだねる者を運ぶ。」
あなたは、運ばれていいのです。
夜が静まり、世界が息をひそめるころ、私たちの心はとても敏感になります。
深い闇の中にいると、ちいさな音でさえ大きく響き、胸の奥に沈んでいた恐れがふっと浮かび上がってくる。
その恐れの中でも、もっとも触れたくないもの――それが“死”という影です。
あなたも、ふいに考えてしまうことがあるかもしれません。
「もしすべてが終わってしまったら、どうなるのだろう」
「この先の未来に、何が待っているんだろう」
その思いは、昼間はどこかに隠れているのに、夜になるとそっと顔を出す。
まるで、月明かりに照らされて姿をあらわす、静かな獣のように。
ある晩、一人の弟子が震える声で言いました。
「師よ……死が怖くてたまりません。考えたくないのに、気づけばそのことばかりを考えてしまいます。」
私は彼を寺の裏手の丘へ連れ出しました。そこは、夜風がかすかに草を揺らし、遠くの虫の声が切れ切れに届く場所です。
「座りなさい」と告げ、しばらく共に何も語らず闇の音を聞きました。
やがて私は静かに言いました。
「死を怖れるのは、生を愛しているからだよ。」
弟子ははっと顔を上げました。
「あなたは、終わりが怖いのではない。
まだ味わっていない明日、美しい瞬間、ぬくもり、喜び……
そのすべてを“失うかもしれない”という思いが、あなたを震えさせているのです。」
仏教には、死を“終わり”ではなく“変化のひとつ”と捉える教えがあります。
春が夏に変わり、夏が秋に変わるように、
生命もまた形を変え、流れ続ける存在なのだという考えです。
これは希望でも慰めでもなく、ただの観察です。
自然界に“完全な終わり”という現象は存在しません。
朽ちた木は土へと戻り、土は芽を育て、芽は木になり、また実を落とす。
あなたもまた、その循環の中にあります。
ひとつ、興味深い豆知識をお伝えしましょう。
人は強い恐怖を感じたとき、嗅覚よりも味覚のほうが先に鈍くなるのだそうです。
これは、古代の人々が危険の中で生き延びるため、
“食べる”より“逃げる”ことを優先するよう脳が進化した名残だといわれています。
つまり、死への恐れは“異常”ではなく、人類が長い歴史の中で受け継いできた深い本能のひとつなのです。
あなたはただ、長い命の連なりの中で、自然な反応をしているだけなのです。
丘の上で弟子は震えていましたが、やがて夜風の音に耳を澄ませ始めました。
「……風が、やさしいですね」と彼は言いました。
私は頷きました。「死の話をしていても、風はやさしい。
世界は、あなたの恐れを裁かない。拒まない。ただ寄り添っている。」
あなたが死を思うとき、心は一瞬で未来の深い闇へ飛んでしまいます。
でも、そこからそっと戻ってきてみてください。
胸の鼓動があります。
呼吸があります。
体温があります。
あなたは、“いま”生きています。
深く吸い、ゆっくり吐きましょう。
「今ここにいましょう。」
呼吸は、生の証そのものです。
そして、呼吸は死からあなたを守るのではなく、
“いまの命を感じさせてくれるもの”なのです。
弟子に私はこう言いました。
「死を恐れるあなたは、生を大切にしたいと願っている。
その願いこそが、あなたを柔らかくし、他者を慈しむ力になる。」
弟子は涙をひとすじ流し、静かに笑いました。
「私は、生きたいのですね」と。
あなたも同じです。
死への恐れは、生きる力の裏返し。
完全な暗闇のように見えるその影の中には、
あなたがまだ見ていない光が潜んでいます。
覚えていてください。
「死を思うとき、あなたの内に“生の火”が灯る。」
その火は、弱いように見えて、実はとても強い。
夜風が吹いても消えません。
あなたの心の奥で、静かに揺れながら燃え続けています。
夜が明ける少し前の、あの世界がいちばん静かになる時間帯を“暁”と呼びます。
空がまだ深い群青のままなのに、どこか柔らかい光が地平の向こうで目を覚まそうとしている。
その気配の中に身を置くと、心がふっとほぐれていくような瞬間があります。
受け入れるという行為は、その“暁の気配”に似ています。
暗闇のままの世界に、小さな光がにじむように広がっていく。
そんな静かな変化です。
ある朝、ひとりの弟子が私のもとへ来て言いました。
「師よ。私はこれまで、自分の弱さを認めることができませんでした。
でも、拒んでも拒んでも苦しみは消えず、ついにどうすればよいのかわからなくなってしまいました。」
その顔には、長く続いた葛藤の跡がありました。
私は彼を境内に連れ出し、しっとりと湿った苔むした石段を一緒にゆっくり歩きました。
足の裏に伝わる冷たさと柔らかさが、弟子の呼吸を少し落ち着かせてくれるのがわかりました。
「受け入れるとは、“負ける”ことではありませんよ」と私は言いました。
「あなたが今まで苦しんできたのは、弱さや不安があったからではなく、
それらを追い出そうとして、心が疲れ果ててしまったからです。」
受け入れるとは、ただ扉を開けて、
「そこにいていいよ」と言うことです。
その言葉は、恐れを育てるのではなく、恐れに居場所を与えます。
居場所を得た恐れは、あなたを攻撃する必要がなくなります。
安心は、戦いをやめた瞬間にふっと現れるものなのです。
仏教には「諦(あきらめる)」という教えがありますが、
これは一般の意味とはまったく違います。
“明らかに見る”という意味です。
嫌わず、拒まず、
ただそのままを、正しい場所で正しい姿として見つめるということ。
受容とは、まさにこの“明らかに見る”という心の姿勢にあります。
弟子は歩みを止め、胸に手を置きました。
「私は、弱さを隠そうと必死でした。
でも、それはまるで影を追い払おうとして、ますます影を濃くしてしまうようなものでした。」
私は頷きました。
「影は消そうとすると濃くなる。
でも、光の向きを少し変えれば、影は輪郭をやわらげる。
受け入れるとは、光の向きをそっと変えるようなものです。」
ひとつ、興味深い豆知識を。
人は“拒絶した感情”を抱えているとき、
体はその感情を危険と判断し、筋肉を固くして身を守ろうとします。
肩こりや背中の痛みが、心の抵抗によって生まれることさえあります。
つまり、あなたの苦しみは「あなたが弱いから」ではなく、
「あなたが自分を守ろうとしていたから」生まれた、とても自然な反応なのです。
石段を登りきったころ、東の空がかすかに薔薇色に染まり始めていました。
その光が弟子の頬をほんのり照らし、彼は深く息を吸いました。
「師よ……胸が少し軽くなった気がします。」
「それが“受け入れた”証です」と私は静かに言いました。
「弱さが消えたのではなく、その弱さを抱いて立つ力が生まれたのですよ。」
あなたにも、今の自分を受け入れられない瞬間があるでしょう。
できない自分。
不安な自分。
疲れてしまった自分。
怒ってしまった自分。
誰かに優しくできなかった自分。
どれも、人生の中で当たり前に現れる“雲”のようなものです。
雲を嫌って空を閉じてしまえば、光も入ってこられない。
雲があっても空は空のままです。
あなたの心も同じ。
弱さがあっても、あなたの価値は曇りません。
さあ、呼吸をひとつ。
ゆっくり吸って、吐きながら肩の力が落ちていくのを感じてください。
「呼吸を感じてください。」
呼吸は、受け入れる心を開く最初の鍵です。
あなたの体は、吸うたびに世界を迎え入れ、
吐くたびに余分なものを手放してくれています。
その自然な営みに、あなたは寄り添えばいいのです。
弟子は朝日に照らされながらつぶやきました。
「私は弱さを抱えたままでも、生きていいのですね。」
私は柔らかく笑いました。
「弱さを抱えたまま生きるのではなく、
弱さがあるからこそ、深く、優しく生きられるのです。」
受容とは、終わりではありません。
受容とは、始まりです。
新しい呼吸、新しい一歩、新しい自分。
あなたがあなたのまま立ち上がるための、静かな力です。
どうか心に置いてください。
「受け入れることは、あなたを小さくするのではなく、ひらく。」
夜がすっかり明け、空の色が淡い青へとほどけていくころ、風がふっと軽くなります。
その風には、解放の気配が宿っています。
ずっと胸に抱えてきた荷物が、ようやく置いてよいのだと告げてくれるような、そんな静かな兆しです。
あなたも、長く抱えてきた重さがあるかもしれません。
言葉にできなかった悲しみ。
誰にも見せられなかった弱さ。
迷い、苛立ち、恥、痛み。
それらはまるで背中に結びつけられた大きな袋のようで、歩くたびに揺れ、心を疲れさせます。
気づけば、重さに慣れてしまい、「これが私だ」と思い込んでしまうほどです。
ある日の午後、弟子のひとりが庭掃除をしているとき、急に箒を止めて私のほうへ来ました。
「師よ、どうして私は“手放してもいい”と言われても、簡単にできないのでしょう。
手放したいのに、なぜか怖いのです。」
私は彼を大きなイチョウの木の下へ連れていきました。
ちょうど黄色い葉が風とともに落ちてくる頃で、ひらひらと舞う葉が静かな雨のように降り注いでいました。
「見なさい」と私は言いました。
「この木は、葉を落とすことを恐れません。
落ちた先に何があるか知らなくても、次の季節に委ねている。」
弟子はその言葉を聞きながら、空から落ちてくる葉を手のひらで受けました。
その葉は驚くほど軽く、風に押されるまま揺れていました。
「師よ……この葉のように、私も軽くなれるでしょうか。」
「もちろんです」と私は答えました。
「あなたが重いと感じているものの多くは、“重いと思い込んだ心”がつくり出したもの。
本当は、葉のようにもっと軽やかに揺れられるのです。」
仏教では、解放とは“執われの終わり”を意味します。
執着がほどける瞬間、心は広がり、世界の音がクリアに聞こえ始めます。
まるで、風が窓をひらき、よどんだ空気を一度に入れ替えてくれるような感覚です。
ひとつ、豆知識をお伝えしましょう。
人の心は“動作の完了”を感じたとき、安心をつくり出す物質(セロトニン)を自然に分泌するそうです。
だから、部屋を片づけたときや、不要なものを手放したとき、ふっと軽くなるのは、体が「解放を確認したよ」と合図を送っているからなのです。
心が「軽くなる理由」は、生理学的にも備わっているのですね。
弟子はイチョウの葉を見つめながら、ゆっくりと息を吐きました。
その息が、まるで長いあいだ胸に溜め込んでいた霧を押し流すようでした。
私は言いました。
「解放とは、何かを捨てる行為ではありません。
風にまかせること。
あなたの心が、本来のリズムに戻ること。」
さあ、あなたも呼吸をひとつ。
吸って、吐いて。
「呼吸を感じてください。」
心の中で長く胸に貼りついていた重さが、呼吸の波に揺られて少し溶けるのを感じるかもしれません。
あなたが抱えているものの中には、あなたを守ろうとした結果、生まれてしまった荷物もたくさんあります。
だから、手放せない自分を責める必要はありません。
むしろ、その荷物を抱えてここまで歩いてきたあなたに、深く敬意を払ってあげてください。
イチョウの葉がひらりと落ちてきて、弟子の肩に静かに触れました。
弟子はその葉をそっとつまみ上げ、微笑みました。
「師よ、私はまだ完全に手放せないかもしれません。
けれど、いまなら“風にまかせる”という意味が少しわかる気がします。」
私は頷きました。
「それでいい。解放とは、一気に訪れるものではない。
風を感じるたび、ほんの少しずつ訪れるものだ。」
あなたも、今日この瞬間、
ほんのわずかでいいのです。
心の中のひとつの葉を、風にあずけてみてください。
そして覚えていてください。
「解放とは、なくすことではなく、軽くなること。」
朝の光が、ゆっくりと世界を包みはじめるころ。
空にはまだ淡い白さが残り、地面には薄い影が敷かれ、風は夜の名残をそっと運んでいます。
その静けさのなかで、あなたの心はどこにいますか。
深い安らぎとは、特別な場所でしか得られないものではありません。
心がそっと自分の元へ帰ってくるとき、その瞬間に訪れます。
あなたは今、長い道のりを歩いてきました。
小さな悩みからはじまり、不安、渦、影、執着、そして死の恐れまで。
それらをひとつひとつ見つめ、触れ、受け入れ、風にゆだねてきました。
その旅路の果てにようやく、あなたは“戻るべき場所”へ足を踏み入れます。
それが――安らぎの庭です。
寺の奥に、小さな庭があります。
石と苔と水だけでつくられた、とても質素な場所です。
ある朝、私は弟子をその庭に連れていきました。
彼は長く苦悩を抱えてきた者で、心の緊張が体中に刻まれていました。
庭に着くと、私は彼にただ腰を下ろすように促しました。
風が苔の上をなで、細い影が砂紋の上に揺れました。
その揺れが、光の息づかいのように見えました。
「師よ……ここは、静かですね。」
「そうだね」と私は言いました。
「この静けさは、外から来るものではない。
あなたが静かになったぶんだけ、庭も静かに見えるのだよ。」
深い安らぎとは、外界の音が消えることではありません。
外の世界がざわついていても、心が静かであれば、そこには安らぎがあります。
反対に、外が静かであっても、心がざわめいていれば、安らぎにはなりません。
つまり、安らぎとは“心の内側に吹く風の質”なのです。
仏教には、心の本質は“清らかで穏やか”であるという教えがあります。
苦しみや迷いは、その本質を覆う雲のようなもの。
雲が晴れれば、青空はもともとそこにあったと気づく。
あなたがいま感じようとしている安らぎも、
外から手に入れたものではなく、
もともとあなたの中にあったものなのです。
弟子は庭の水面を見つめながら、こう言いました。
「風がふれて、水面が揺れても……水は水のままなのですね。」
私は微笑みました。
「そう。揺れは本質を変えない。
あなたの心も同じ。
不安に揺れても、ストレスに曇っても、本質は何ひとつ傷ついていない。」
あなたが抱えてきた痛みは、あなたの本質ではありません。
あなたの価値ではありません。
あなたそのものでもありません。
それはただ、風が起こした一時の波にすぎません。
ここでひとつ、豆知識をお伝えしましょう。
人は“安全”を感じるとき、皮膚の温度がほんのわずかに上がるそうです。
安心したときに手のひらが温かくなるのは、体が「もう大丈夫だよ」と静かに教えているからなのです。
もし今、あなたの胸や肩が少しでも温かいなら、それはあなたがちゃんと安らぎに近づいている証です。
庭に座る弟子の呼吸は次第にゆるみ、
肩が落ち、まぶたが少し重くなっていきました。
周りの音は、鳥の囁き、風の擦れる音、遠くの水の滴る音。
それらが彼の心に溶け込んでいくのが見えました。
私は静かに言いました。
「安らぎは、“努力”でつくるものではなく、“戻る場所”なのだよ。」
彼は静かに頷きました。
「では私は……ずっと帰り道を探していたのですね。」
「そう。そして今、帰ってこられた。」
あなたも同じです。
心が疲れ、迷い、恐れ、彷徨っていたとしても、
あなたの本質は一度も失われていません。
静けさはあなたの内側に、ずっとそこにありました。
あなたがそこへ戻るだけでよい。
さあ、呼吸しましょう。
深く、ゆっくり。
吸う息で胸がひらき、吐く息で心の底に静けさが沈んでいく。
「呼吸を感じてください。」
安らぎの入口は、つねにそこにあります。
あなたは、安らぎに値する存在です。
あなたは、再び自分に戻れる力を持っています。
そして――今、あなたはその庭にいます。
どうか覚えてください。
「安らぎは遠くにない。あなたが戻ると決めた場所にある。」
夜が静かに深まり、世界の輪郭がやわらかくほどけていきます。
あなたの呼吸もまた、その静けさに寄り添うように、ゆっくりと落ち着いていきます。
まるで、長い旅を終えた舟が、波ひとつない入り江へとすべり込んでいくように――
その安心が、いま、あなたの胸の奥でひっそりと灯っています。
空には淡い月が浮かび、薄い雲がその光をやわらかく包んでいます。
風は冷たくもなく、ただ透明で、
あなたの頬をそっとなでながら、
「もう急がなくていいよ」と言っているようです。
水の音が聞こえます。
遠くで、どこかの岩にあたって、
小さな響きを残して消えていく。
そのリズムが、あなたの呼吸と静かに重なります。
あなたの歩いてきた道には、不安も、痛みも、影もありました。
けれど、そのすべてを越え、あなたは今、静かな場所にいます。
心はやわらかく、風は優しく、光はあたたかい。
あなたが自分を抱きしめることを、世界が許してくれる時間です。
今日の終わりに、そっと目を閉じてみましょう。
胸の奥に、微かな明るさがあるのを感じてください。
その光は誰かからもらったものではなく、
もともとあなたの中にあったものです。
ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。
そのたびに、体のこわばりがほどけ、
心の奥の方まで温かさが広がっていきます。
あなたは大丈夫です。
あなたは、ちゃんとここまで来られた。
そしてこれからも、あなたの歩みは光に導かれていきます。
どうか今夜は、深い静けさの中で眠ってください。
風の音が子守唄のように、そっとあなたを包んでくれます。
水面のきらめきのような夢が、あなたをやさしく迎えてくれます。
そして朝になれば、あなたはまた少し軽くなり、
また少し自由になっているでしょう。
おやすみなさい。
どうか心安らかに。
